“発達障害を認めない親”それは本当に見栄や体裁を守るためなのでしょうか?子どもの発達障害を認められない本当の理由4つ

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私の姉は実は幼稚園の先生をしています。

結婚をして、遠くに住んでいるので、そんなに会う機会は少ないのですが、hidaka3歳の健診が近づいてきた頃、あるママ友達に助言され、hidakaの発達について相談した事があったのです。

私「ひだかの言葉の遅れ、だんだん心配になってきて。。。」(発達障害の知識が全くありません。自分の関わり方が悪いのかなという心配をしていたのです。)

ママ友達「んー。私は大丈夫だと思うけどな。でも、たくさんの子どもを知っている訳ではないし・・・。あれ?kanoさんのお姉さん、幼稚園の先生しているんじゃなかったっけ?」

私「うん。今度の年末、帰ってくる。」

ママ友達「お姉さんに聞いてみたらいいんじゃない?ねー。きっと参考になるよ。」

私「そうだね。何か関わり方のヒントもらえるかもしれないね。ありがとう。」

地域の妊婦交流でお友達になったママ友達。全部で6人いたのですが、赤ちゃんが産まれてからも、定期的に集まり、育児の相談や愚痴などを、おしゃべりして、一緒に励まし合ったり、情報交換していました。

その中で、このママ友達ともうひとりのママ友達は、“発達障害”という障害を知っていて、私のhidakaの言葉の遅れという悩みを聞いてくれていたんだと思います。

育児のことで悩み、調べていたネットの情報の中にあったものを読んだのか、身近に、子どもの発達障害に悩むお友達がいたのかはわかりませんが、後で思い返してみると、私とは違って、私の育て方ではなく、hidakaの心配をしていたんだなと思える発言がいくつかありました。

 

年末に姉と実家に集まった時、姉とhidakaは何やら遊んでおりました。

しばらくして、姉に聞いてみました。

私「ひだかの言葉の遅れ気になっているんだー。」と。

姉「そうなんだ。うーん。確かに早くはないかもね。でも家庭の子(専業主婦の子)だからね。今何歳だっけ?」

私「2歳半かな。」

姉「んー。。。微妙だね。まだ2歳半でしょ?大丈夫じゃないかな?」

私「(ちょっとホッとして)そうかな。ことばの教室とか通った方がいいのかな?と思ったりしていたんだけど。」

姉「ことばの教室!んー。そっか。気になるなら早めのほうがいいかもね。」

私「ことばの教室ってどんな感じなのかな?」

姉「わからない。後で手遅れになるよりも早めのほうがいいよ。ほんと。“認めない親”なんてたくさんいるんだから。(ため息)」

私「認めない親??ふーん。。。?。。。ありがとう。参考に考えてみる。」

 

この時、はじめて“認めない親”というワードを聞きました。

本当になんのことなんだか、よくわかりませんでした。

実際、ことばの教室だって、言葉を教えてくれる教室だと思っていたのです。私のような未熟な親、家庭で母親としかあまり関わりがなく育った子の言葉の遅れを、プロの力で取り戻してくれる教室だと思っていたのです。

認めない親”というのも、子どもの言葉の遅れを認めない親?そんな親いるの?

・・・あー。忙しくて気付けないのか!くらいの感覚でした。共働きの両親の子どもだったらあるかもしれない。毎日、仕事に追われていたら、ことばの教室も忙しくて連れていけないのかな?くらいにしか思いませんでした。

自分が仕事をしていたときの忙しい経験しかなかったので(自分が不器用で仕事しか集中できなかった)、未熟な考えで納得していたのです。

 

結局、「早い方がいい」というアドバイスよりも、「大丈夫じゃないかな?」と「家庭の子」という言葉のほうが印象に残り、3歳までの残りの月日を何となく不安という感じで過ごし切ってしまいました。

 

“認めない親”。今なら何を認めないという事なのか、わかります。

 

“発達障害を認めない親”それは本当に見栄や体裁を守るためなのでしょうか?子どもの発達障害を認めない本当の理由4つ

 

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1.知識がない

ただ発達障害に関する知識がないのです。

私はこれでした。

身近に障害を持っている人がいない人が、どれだけ障害のことの知識があるでしょうか。子育て中であれば、子育ての情報。必要な時に必要な情報を調べたり、色々経験することによって、知識を得ていくのです。

発達障害の認知もあがってきてはいますが、その知識も浅く、その印象も身近にいる、発達障害やその傾向を抱えている人の影響が強いと感じます。そして私の当初のように、発達障害の存在自体知らない、全く知識がない人もたくさんいます。

知識がないので、発達障害を知らない。認める認めないの前に、何を認めるのかわからないのです。

2.我が子の現状を知らない

発達障害の傾向にもよりますが、家庭で関わる分には全く困らないタイプの子もいるのです。また、困難を感じても恐怖で抑制すれば、一時的にその傾向が収まるというタイプの子もいるでしょう。他にも、母親や保育園ばかりが育児していて、その様子を人を通してしか聞いていないと、本当の我が子を知っているという感覚とは遠いものになってしまっている場合もあります。

私はhidakaは一人目の子どもです。初めての子育てで、私の姉も子どもがいません。比較する子がいないのです。私の母も女の子しか育てた事がなく、よく「男の子とはこんなもんなのかねー。」と言っておりました。子どもとはこんなものなのかなと、当時は思っておりました。

そして今でもhidakaの子育てが私の中でのスタンダードです。

・・・我が子の現状は、幼稚園の先生や児童精神科の先生、療育の先生など、比べる対象の子を知っている人からしか感じる事は難しいのかもしれません。

そういう場での比較の話しを知らなければ、判断材料が少ないのです。発達障害の傾向を知っていて、その度合いが障害の域まできているのかを、実際の比較対象がいる場面を見てみないと、感じとるのは難しいという場合もあるのかもしれません。

そういう意味では、我が子の現状を知らなければ“障害を認める”という、子どもの人生を大きく左右することをするためには、判断材料が少ないのかもしれません。

3.認めない親自体に何らかの発達障害が潜んでいる

カサンドラ症候群の記事でも書きましたが、発達障害の傾向は遺伝である説を私は否定できません。

両親自体が発達障害の傾向に、社会生活に不適応な対応をしてしまっているのかもしれません。その周囲の親との対応の違いに浮いてしまい、保育関係者の人を困らせてしまっている親も少なからずいるでしょう。親自身も過去に発達障害の傾向に悩ませられ、歪められてしまっているのかもしれません。

このタイプの“発達障害を認められない親”というのは、問題が深いです。両親のうちどちらか一方でも、“認められる親”になれているのであれば、その“認められない親”のパートナーの特性に合わせて働きかけていくしかないと思います。

我が子の為に、家族の為に、パートナーのことを理解し、受け入れ、どうしていったらよいのか、専門家も交えて考えていく必要があるのではないかと思います。

4.本当に見栄や体裁を守るため

見栄や体裁というと、「人によく思われたい、尊敬されたい、強いと思われたい、かっこよく見られたい、美しく見られたい」などと思う気持ちから取ってしまう、自分の外見を飾ったり、自慢したりする行動を指すようです。世間の人から見られた時の、自分の状態についての感じを気にして、我が子に発達障害があることを認めない。

実際、障害に対する差別や悲観な気持ちが強い人に、多いのかもしれません。

見栄や体裁というのは、適度なものであれば、自分を高めるいいモチベーションになるのですが、偽ったり、自慢したりすると、人を不快にさせ、醜いものになります。

そういうものに固執してしまうのは、自分に自信がなかったり、コンプレックスがあるせいなのではないでしょうか。

その親もまた、ありのままの自分を受け入れてもらった経験が少ないのかもしれません。

さて、私はどうでしょうか?hidakaに発達障害の疑いがあると知ったときから、「自分はこの見栄や体裁はどうなんだろう・・・」と考えたりすることがあります。

我が子に発達障害の傾向があること。大きな声では言えません。

もし、hidakaが今後、何の問題もなくすくすく成長していき、社会に適応し、さらにおめでたいことに結婚なんてする日がきたら!!

幼少期に発達障害の心配をしていたことがあることを、私はわざわざ相手の親や奥さんに聞かれていないのに言うでしょうか?

言わないと思います。

これは見栄なのでしょうか?体裁を守りたいのでしょうか。そうだと言われるのならば、多少はそういう気持ちが私の中にもあるんだと思います。

でも、見栄や体裁というのは誰しも少しは持っているのではないでしょうか。

それが、子どもを不幸にするのならば迷うことなく捨てます。

でも幸せにするものになる可能性があるのなら、私は生涯進んで捨てるという事はないと思います。

障害を認めない親の中には、本当に自分の見栄や体裁を守りたいと思っている人も中にはいるのかもしれません。でも一部、“子どもの幸せになる”と知識がなく、勘違いして、見栄や体裁を守っているという状況もあるのかもしれないと思ったりしました。

まとめ

保育・教育関係者の言う“発達障害を認めない親”。

実際、保育の現場で、保育士の方も、幼稚園の先生も、学校の先生も、自分達の利害を考えず、懸命に手を掛け、耳を傾け、周囲を巻き込み、奮闘して、それでもダメで、やむを得ずどうしようもない気持ちで、協力を親に頼んだ。

結果、突っぱねられた。という憤りの結果なのかもしれません。

私はその保育・教育関係者の気持ちは想像することしかできません。

でも、“Look on both sides of the shield.”一つの側面にはまた別の側面がある。

“発達障害を認めない親”

本当に見栄や体裁を繕って認めない親という響きだけに聞こえてしまい、少し寂しい気持ちにさせられます。

ただ知識がなかったり、子どもを知らないという親も少なからずいるのではないかと思うのです。

 

“発達障害”という言葉。デリケートになってきています。その後のフォローも確証もないのに安易に発して惑わせる事はできないのです。

そして、発達障害グレーゾーンの子は本当にわかりにくい。子どもの成長は誰も予想する事ができません。

 

後日、姉が母に話していた事を、母から聞きました。

hidakaが3歳になり、療育に通う事になってからです。

「やっぱり。そうなったんだ。(言葉の遅れ・社会性の遅れを3歳児健診で指摘され、療育に通う事になった。)kanoのんびりしてると思っていたんだよね。でも言えないでしょー。ちょっと多動な面もあったよね。」と、言っていたよ。と。

母は「姉は保育関係者だから、何となく感じていたんだよ。これからも頼ったらいいんじゃないかしら?」ということを伝えたかっただけなのかもしれません。

でも私は本当にひどくショックを受けました。

「え。そういう風に思っていたんなら、言ってくれればよかったのに・・・。私も姉がため息交じりに言っていた“認められない親”として見たということ?」というように。

その時はhidakaが発達障害かグレーゾーンなのか、今後どう成長していくのかわからず、早期発見早期療育の必要性を知り、もっと早く何かしていれば、療育に通うという事はなかったのか?など、自分を責めるような気持ちもふつふつしたり、様々な気持ちと格闘していたころだったので、本当に寂しい思いをしました。

 

 

・・・冷静になって考えてみると、きっと姉は幼稚園の先生ですし、2歳半の時点では判断がつかなかったんだと思います。

年に1~2回しか会わず、遊んだのも数時間です。ことばの教室というワードで発達障害という考えが浮かび、療育に通ったという結果から、今から思えばという感覚で言った発言だったんだと思います。母に「私は気付いていたよ。」という、いい顔したかったというのもあったのでしょうか。妹の話しなので、少し上から話したかったのでしょうか。

とても優しい姉なので、もしかすると、“認めない親”への憤りの気持ちが、ふと湧いてきた目の前の“認めない親”への苛立ちへ向かったのか。真意はわかりません。でも、姉を責め立てるものではないと感じました。

母もただ、「家族をもっと頼りなさい。」と、ひとりhidakaの療育に奮闘している私へのアドバイスの気持ちでそのような隠れ話をわざわざ私にしたのでしょう。

 

 

“障害を認めない親”。皆さんの印象はどうでしょうか?

 

「もしかしたら・・・」と思いながら、「発達障害だということを認めたくないんだ。」と遠巻きから見て、子どもの現状を将来を悲観するという姿は正しいのでしょうか?

「発達障害だということを認めたくない」という親の身勝手な理由の前に、“発達障害を受け入れていない理由”があるのかもしれません。その可能性のほうが高いことを知って欲しい。周囲の目が、もう少し温かいものになれば、“発達障害を認めない親”というのはいなくなるのかもしれません。

 

お読みいただきありがとうございました。

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